アメリカでシュタイナー・スクールに通う

シュタイナー教育をご紹介します。

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科学教授法 その4

わ~、怠けていたら2週間なんて、さっさと過ぎていってしまった...。

最後の章が、残ってしまいました。

こ、こんなの、3日でやれよ~、って自分にモンクをいう自分...。

全然推敲してありません。

乱文、タイプミスなど、お許しを~。

あとから直します。

これから、学校で基金集めのためのバーベキュー会があるのです。手伝いに行かなくては!

良い週末をお過ごしください。



++++++++

<小学生>
とはいえ、小学校の児童たちに対して、このような学習のプロセスをいきなり適用することは出来ません。適切な観察活動が出来るようにするためには適切に発達した感覚が必要で、物事の比較検討ができるよう豊富な経験をつむ必要があります。さらに、五感で知覚されうる豊かな経験の世界から特定の感覚認知を抽出する方法を幼い子供たちは自ら知る必要があるのです。最終的には、子供が本当に経験する世の中や感覚的環境が、その中にいることで得られる印象が圧倒的過ぎたり狭義過ぎたりしないものでなくてはなりません(物事に対して落ち着いた評価が出来るような観察眼が必要だということ)。小さな子供を適切に教育するためには、「教える」というよりはむしろ、適切な環境を確保することが必要で、適切な環境とは、感覚に訴えるような豊かな環境のことを言うのです。

環境というものを考えるとき、自然ほど感覚に訴える豊かなものはないかと考えられます。くどいようですが、観察結果を見せてその概要を説明してやることが子供たちを教育することではありません。子供たちの感覚の発達に応じて、この観察そして概略化のプロセスを自然にわかるように導いてやることが必要なのです。

この文章のはじめのところで、羊に関するエピソードを言及しましたが、その例を思い出してみてください。

小さな農場を心に思い浮かべて、その環境や印象に注目してください。さて、今度は、いま心に浮かんだ環境や印象を、大型スーパーのレジの列で心に浮かんだ印象、あるいは、もっと具体的に言うのであれば、コンピューターの平らな画面に機械的な音とともに映し出されるデジタル化された羊の映像と比較してみてください。

小さな子供は、どちらの環境に対し理解を示し、羊という動物を個々の羊としてでなく周りの環境も全部含めた上でしっかりと羊だと認識するでしょうか。

今までのお話しで、シュタイナー学校の幼稚園や小学校低学年の教室がどうしてあのようなアレンジにしてあるか、あるいは、なぜ朝に輪になってやる活動や「遊び」が子供の「教育」の中心となっているかが理解していただけたかと思います。

<小学校高学年から中学校にかけて>

お話を中学校の生徒にまで飛ばします。中学生たちは環境や自分たちの自意識に対する個々の関連性に関して明らかに別の世界に住んでいます。生徒たちは6年生までに自分たちの環境に非常に注意深くなります。日々の生活を通して、自分たちの周りにいる大人たちに関するおかしなことに気づき始めるのです。また、自分の外見や心の中に関して自意識が生まれてきます。そんなときに、教師は意識的に働きかけ個人と集団レベルの両方で生徒たち自らの観察力を養わせるのです。

たとえば、生徒たちに日の出のシーンを見せて、後ほど、生徒たちがどのような観察を行ったかを聞きます。日の出はどのような順序であったかとか、生徒たちが出し合った観察事項を見比べてそれぞれどのような関連性があったかなどを話すのです。

もっと具体的にお話をするとしましょう。

6年生たちを小さくて完全に真っ暗な部屋の中に連れてゆきました。その中で、高性能の制光装置を使って照度をゆっくりと上げてゆくことをしました。装置を真っ暗な部屋からチカチカするほど眩しい照度(500ワットの電球を利用)まで上げるのです。

この実験はほとんど喋ることなく行われます。教師はただ注意深く照度を段階的に上げてゆくのです。そうすることで生徒たちは目の前で行われている実験を本当に理解するのです。

翌日の復習の時間には、生徒たちからはこれでもかというほどの観察コメントが出てきました。まず、ごくありがちなものとして、「最初は何にも見えなかったけれど、誰かの頭が見えるようになったわ。」というようなコメントが出てきます。それが誰の頭だったんだろうなどと言っていると、別の生徒が、「最初は全てが真っ黒と真っ白だったけれど…。」などと言い出し、別の生徒も、「それに、なんだか平面的だったな。2次元みたいな…。」などと言い出します。

生徒たちの会話を注意深く聞いていると、ばらっばらだった観察内容を順序だてようとしているのが見えてきます。そして、ランプの非常にほの暗い光以外ほとんど何も見えないシーンがあったことに気づきます。変化する暗さの影をゆっくりと認識できるようになり、そこで生徒たちは見覚えのある形(たとえばクラスメートの頭)を認識し始めるのです。

それから、自分たちの着ている洋服の色が、暗かったときの方が認識しやすいものがあることに気づきます。白系は最初のころに見えるものの、白と黄色を見分けるには高い照度が必要だとわかりました。赤系も結構初めのころに認識が出来るものの、照度が比較的低い中で黒っぽく見えた青縞のセーターを認識するには比較的高めの照度が必要だとわかりました。電球が最大の照度となるころには、部屋にいるものたちはまた目が見えなくなるのですが、それは白色の光沢しか目に入ってこないからです。

生徒たちが最終的に表現した重要ポイントの1つに、色が照度レベルとともに変化していったということがあげられます。それほど明らかでないにしろ、生徒たちの心に残ったものとして、我々が色や形の2次元的なイメージを理解できるような役割を果たしている色の役割であり、それが私たちが日常見えている空間感覚に関連しているということです。この辺のことは少し触れるぐらいの内容となりますが、詳しくは7年生になってから美術(絵画)やルネッサンスの授業で学ぶことになっています。

中学生時代というのは、自分の目で見る世界と想像した世界との間の基本的な違いを最初に認識できる年齢にあたります。この年齢の子供たちは、知識の基礎を哲学的に理解するにはまだ時期尚早ですが、自分のめで実際に見える(あるいは、香りがわかったり、音が聞こえたりなど)ものと、これらの感覚から得られた感情や考えとの間の違いを理解することは適切だと考えられます。

くどいようですが、教師は生徒たちと哲学的な追求をする必要はありません。ただ、授業の中で生徒が言ったコメントに関して総論的な見地で特異点の指摘をするに留めるのが適切です。

感覚と感情あるいは思考に違いがあることを若い青年期の年頃の生徒たちに理解させるという教育的な重要性は明らかだと考えられます。

科学という教科を通じて、説教じみた授業にすることなく、中学生ぐらいの、いわゆるティーンエージャー前半の子供たちの感情面の生き方を強くそしてバランスよく保たせることが可能なのです。

現象学の見地から授業を行う場合、それをどのようにするのかが重要です。

まず、前置きは殆ど無しか全然無しで、翌日に前日自分で見たものに関して話が出来るような環境の中に生徒たちを連れてゆきます。

連れて行く環境に、複雑で科学的な事前セットアップなどは必要ありません。目の前にある現象が世界とどうつながっているかを感じ取ることが出来るような環境であれば、いつも見慣れたようなところでもいいのです。

観察対象が明確になれば、生徒のほうから進んで対象となっている現象により注意深い目を向けるようになり、教師がいちいち「これをご覧なさい」とか「あれが聞こえましたか」などと言う必要がなくなってゆくのです。それと同時に、お喋りをしたり、わからないことを大声で言ったりしないよう生徒たちに注意を促します。最終的に、実験などが終了して、授業が終わるちょっと前に、その授業中に何が起こったのかをその順番に沿って思い出すよう仕向けられます。

自分たちの目で観察したプロセス(道筋を立てたものの考え方は明確な思考にとって重要なツールとなります)を自分の肌で直接感じることの重要性を見逃してはなりません。

教師は時々生徒たちに質問を与えて自分たちで考えるように言ったりしますが、生徒たちが結論を出してしまうように仕向けないよう注意しなければなりません。

翌朝、教師は前日起こったことを生徒たちに思い出させます(復習)が、その際に実験を再現したり器具を取り出したりする必要はありません。教師が最初に生徒にリクエストすることは、結論や原因や関連性に触れることなく観察してみたことだけを発表することです。

こうすることで、クラスのみんなの前で「答えを出さなきゃ」というプレッシャーを感じることなく自分の目で見た事にだけ重きを置いて話すことが出来るのです。教師の方も、生徒が観察した内容に白黒をつけたり、発表する内容の一字一句にチェックを入れたり、どんな結論を出すか期待するようなことは必要ありません。

授業の中で適切な空気が流れ始めれば、正しい観察内容や期待していた結果が自ずから導き出されるだけではなく、それより一段上の観察内容や、別の関連性を見つけたりと想定外のことが起きたりするのです。

くどいようですが、教師はしっかりと目をあけて、ある関連性に関して新たなものの見方はないか、あるいは他の方法で表現できないかどうかなどその可能性の出現を待つ必要があります。
生徒たち自らがコンセプトを作るプロセスに携わっていることを体感させるのが私たち教師の務めであって、「先生がこう言えと言うから…。」というようなことを生徒に言わせるために私たちがいるわけではないのです。

物事の関連性やコンセプトは観察結果が全てしかるべきところに落ち着いて初めて見えてくるということなのです。

教師が、さっさと、「はい、正解」とか「はい、間違え」というようなコメントを言うのも控えるべきです。

その代わりに、生徒が提示した内容が正しいかどうかクラスのみんなが正しいかどうか判断を考える環境を作ってやるのです。最終的には、教師が先導役となりますが、そのプロセスは常に前にばかり進む必要はなく、教師がどう進行すべきかリードを取ればよいのです。次に進むときは必ず教師が最初の一歩を踏み出すということばかりではありません。

実際、次の課題などに取り掛かる際にもっともタイムリーな形で入っていくのは、今までの授業を理解した生徒が「じゃあ、これが本当だったとしたら、この場合はどうなの?」などと言い出す場合があって、こんな発言が出るときは、たいてい、物事がうまく進んでいるときなのです。

<1つの例>

8年生である特定のレッスンを行うとき、一番最初に、今までの説明がどれぐらい入っているか考えます。

色の付いたフリンジ(屈折現象)の観察を行ったのですが、それは、暗い面に明るい面を付けた物体に向けてプリズムを通して見るというものです。授業では、プリズムの端の1つが必ず上向きになっていること、そして、プリズムを目線の高さでもつ、というような決まりを作りました。そうすることで、クラスのみんなが同じ境界線を見ることを前提として、みんなが同じ色の順番で見れるからです。プリズムのこの位置付けを基本にすると、明るい面が暗い面より上に来る場合、暖色のスペクトル(色の列:赤、オレンジ、黄)が観察できます。暗い面が明るい面より上に来る場合、寒色のスペクトル(青、紫)が見えます。

その日の宿題に使えるように生徒たちにプリズムを貸し出して、自宅で同じような実験を行ってメインレッスンのノートに観察結果を描いてくるように言っておきました。

翌日、生徒たちに自宅で描いてきた絵を見せるように言うと、生徒の中の一人から次のような声が上がりました。

「思ったとおりに行きませんでした。何でそうなってしまったかわからないけれど、宿題をはじめたら、授業でやったように物事が進んで、うまくいくと思いました。でも、途中でおかしくなってしまったのです。もしかしたら、私の借りたプリズムがおかしかったのかもしれません。窓を入れて壁に光が写る様子を絵にしようとしましたが、最初は、丁度授業でやったような色が壁に映し出されていたのです。でも、しばらくすると色がどんどんと薄くなってしまって、消えてしまったようになったので、あきらめました。少ししてから部屋に戻っていってもう一度やろうとしたのです。色も見えましたし、これで出来ると思ったら、暖色と寒色の配置が替わってしまっているのです。」

私は生徒の前に立ち尽くし、しばらくの間思案しました。

彼女の自宅や時間帯(12月)を頭の中で描き、何が起こったのかを考えようとしました。

彼女に対して次のような質問をしました。

「何時に、宿題をはじめましたか?」

「午後の遅い時間に。」

と彼女が答えます。

「具体的には、何時?」

「午後の4時ぐらいです。30分ぐらいやっていました。」

「問題はそのときに発生したの?」

「はい、だから、そこでやめてしまって、夕食を食べてからやり直そうとしました。そのときに色の入れ替わりに気づいたんです。」

今度はクラスのみんなに向かって、何がどうかわったのかがわかるかを聞いてみました。

生徒たちは、最終的に、そのとき太陽が沈みかけていて、このクラスメートが部屋に明かりをつけることなく宿題に取り組んでいたことを知ります。このような条件のもとで、明るめの色をした窓(地面には雪が積もっていて、彼女の自宅は開けた場所に位置します)と、それに比べると暗め(外から入ってくる太陽の光だけが部屋を明るくしている)の色の壁のみが彼女に1つの色の向きを見せたのです。

太陽が沈むにつれ部屋の中にある全てのものや窓がどんどんと暗くなっていきました。それによって、明るいところと暗いところの境目が肉眼ではわからなくなりました。そんなことを話しているうちに、クラスのみんなは、部屋が暗くなったからということで彼女が電気をつけたということに行き着きました。そのため今度は、窓が暗く、壁が明るくなりました。それまでとは全く逆の状況となったのです。その状況で彼女は実験を再開し、あの晩は大変なことになってしまったということです。

授業で起こったことはまさに注目に値すべきものでした。

彼女が自宅でやろうとしたことがうまく進まなかったことがイライラを生んだ一方で、彼女が観察して最初は全然意味を成さなかったことを通して、クラスメートたちに色のフリンジ現象にはどのような条件が必要なのかを考える機会を与えてくれました。そのうちにクラスのみんなで彼女の不思議話をうまく整理し、教師にはあくまでも生徒主導で話を進めさせてゆきながら話の関連性が見つけられるような質問をタイミングよく挟んでゆけば良いという仕事があっただけです。

最終的に、観察をした生徒は自分自身が体験した発見に励まされました。

昔ながらの科学教育に対するアプローチですと、まず誰かが法則を提示します。そして、実験なりを行って、その法則が正しいことを証明しようとします。授業の中では、上記のような一見失敗だと思われるような観察結果は素通りにされてしまうことでしょう。なぜなら屈折の法則に当てはまらないからです。

こういうことで、生徒たちは感覚というものがあまり当てにならないものなんだなと思うようになってしまいます。

実際には、感覚を使って、それも注意深く感覚を研ぎ澄まして使ったからこそ、最初に正当であることがわかったのです。

<教科書による研究に関して一言>

自分で経験をしたり、関連性を見つけ出すことが生徒たちみんなにとって大切です。中学校では、何が起こったのか、あるいは、まだ知られていないものの関連性の描写を明確かつ順序だてて行うことに時間を費やしても良いです。描写活動はまずはクラス全体で取り組んでも問題はないものの、生徒の一人一人に責任を持って「何が起こったのか」の記録を行わせてください。

いずれの場合も、教師は生徒が取り組んでいる下書き段階の記録や文書を必ずチェックし、アドバイスを与えてください。これは、生徒が一人一人しっかりと観察活動を行い、順序だてや適切な関連性の発見をしているかどうかを確認するためです。内容によっては、それを詳細に描写することで観察対象や関連性の全てを事細かにつかむことが出来るため、それに関する文章を書かせるのは二度手間になってしまうかもしれません。その内に、教師も授業をどのように進めるのが適切かを感覚的にわかってくるようになります。教師は、個々のケースで、文章を書かせることと絵で表現させるのではどちらが良いのかバランスを考えるようにしてください。全部が全部両方をしっかりとやらなければならないということでもありませんから。

1つのブロック(エポック授業)が終了する頃には、生徒の1人1人がメインレッスンブックを1冊作り上げ自分たちがやった実験や観察などを思い出す助けとなり、どうやって自分たちで法則や関連性を見つけだすことが出来たか、そのときの感覚が蘇ってくるのです。

<どこに繋がってゆくのか?高校物理がどう進められるかの簡単な説明>

現象学的見地に立った科学の授業は高校になっても引き続き行われます。私個人の経験から言って、これは大変効果的です。

生徒にしっかりした観察の基礎力があって物事を非常に注意深く観察する目があれば、いかなる科学トピックであっても、絶えず探究する心をもち、今まで学んできた知識と未知のものを知ろうとする知的好奇心を総動員して理解に努めようとします。

例えば、9年生では、熱現象の勉強をしますが、その際に実験をいくつかやってから熱と温度のコンセプトの明確な区別を行います。ある意味、まことに質素(地味)な始まり方です。しかしながら、この授業の第2週目も終わりに近付いてきますと、熱物理学の基本代数的問題解決にまで進んでゆきます。生徒たちは、バケツに入った冷たい水に熱い銅片を入れたときに、どのように温かくなってゆくかを計算できるようになるのです。

我校では、この実験を打ちつけた銅の容器を使って行います。物理の授業は、4サイクルエンジン内燃機関をかなりの理解をもって終了します。そうです、生徒たちは、機能の説明をする前に実際に自動車のエンジンの分解作業を行ったりもするのです。

10年生になると、力学の法則を学習し、ガリレオが苦労して解き明かそうとした問題に取り組みます。

11年生では、物理学における物質からならないものに取り組みます。電気や磁性に関する学習です。自分たちの目では見えないものを実験を通して明らかにしてゆく作業が続きます。電気とか磁界というものは私たちの目では見えませんが、現象を通じてそれらが何をするのかを見ることは可能です。

11年生たちは、原子論も学習します。ここで、生徒たちは、物質の原子模型にまで発達した概念的枠組みだけでなく、現象に取り組む知的能力を発揮します。


++++++

最後の部分は出来次第アップと言う事で...。

(続きます)


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