アメリカでシュタイナー・スクールに通う

シュタイナー教育をご紹介します。

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科学教授法 その3

<どうアプローチするか>

自らの感覚を通して知識を得る(感覚的認知/認識:刺激に対する直接的で基本的な認知)ということが科学に対して現象学的にアプローチをするための前提となります。

そこから全てが始まります。

私たちの考え出すコンセプトは全て、それが科学であれ、日々の生活に関するであれ、必ず最終的には感覚的認知、あるいは、感覚的認知とその他のコンセプトとのコンビネーションでなくてはなりません。最初は、感覚的認知のことを視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚といった私たちが日々使っている基本的な感覚だと考えることが出来ます。やがて、これら以外にも感覚的認知があることを知るようになります。例えば、運動感覚、平衡感覚、思考感覚などです。

世界を理解するにあたりこのようなアプローチを使う基本的な考え方を、シュタイナー教育の創始者であるルドルフ・シュタイナーが彼の著書「自由の哲学」あるいは「魂の指針としての直感的思考」のなかで詳しく説明しています。

これらの本のなかで語られている中心的テーマのひとつが、以下のように概説されています。

新しいことや馴染みのないことを初めて体験するとき、私たちは特定の事項に着目し、そして、自分たちが観察を行っている環境全体からその着目している事項を分けようとします。物事を観察するには本当にいろいろな方法がありますが、実際には一度に観察できる量は限られているからです。ですから、特定の事項にだけ焦点を絞った観察を行い、そして、観察した事項内で関連性や道理などを検討するわけです。着目していないものと着目していないものが存在する環境全体との間にも関連性が浮かび上がってきます。

最初は観察の結果を感覚ベースの知覚で、観察の結果見出した関連性を思考ベースの着想だと考えることが出来ますが、後に知覚と着想との違いがよりクリアに理解できるようになると、思考も知覚を基本としていると理解できるようになります。

理解した内容の関連性を模索しようとする活動は直線的にできたり理論一辺倒で構築できるようなことではないことが、まさしくいま説明したプロセスの魅力的な部分だといえます。

なにかに関して初めてその関連性を見つけようとするとき、そのプロセスに関してしばしば直感が引き合いに出されます。直感とは、一連の知覚事項あるいは他の概念を織り込んだ知覚をまとめることが出来る概念の枠組みに洞察を行うプロセスです。

これはまさに科学者や発明者や芸術家や研究者などにとっての「あぁ、そうだ!」という発見(気付き)の一瞬のことです。

その瞬間で今までに見えなかった新たな関連性が見えるようになり、それがあって初めてそれによって今既にわかっている他のことに適用できるかどうかを見極めることが出来るような理論の構築が出来るというわけです。いろいろある現象の関連性を見つけようとするこのプロセスこそが本当の意味での思考活動といえるのです。

思考とは今既に知られている事実を単に積み上げることではないのです。

ここで、科学を現象学的見地から教える方法と、伝統的な方法で教える場合の一番の大きな違いを説明しましょう。

現象学的な教え方では、教師は生徒に対して現象そのものを経験として味あわせようとします。そして、関連性や道理を自ら見つけ出させようとします。こうすることで本当の意味での思考力つき、思考のキャパ(容量)が増えることになります。考えることが活動そのものとなり、「考える」という動詞になります。つまり、思考が命をもって動き出すのです。

従来の教え方ですと、まず法則や関連性が生徒たちに提示されます。そして、なぜそうなのか、なぜそうなるのかの証明の説明がされます。この方法ですと、生徒たちは自分たちの思考に頼ることなく理論的な主張をただ聞いていればいいのです。現象学的学習法で必要とされる洞察力は必要とされません。

この場合、いろいろあるデータ(法則や関連性)にどうアクセスしどれだけそのデータを集めてくることが出来たかということになり、それが思考ということになります。

今説明した2つの学習法に関して興味深いことは、科学における新しい考え方や発明といわれる殆ど全てのことが、ある人物が意識的あるいは無意識的に現象学的なアプローチをした結果から来ているということです。

科学者が使い古されて既に時代遅れになってしまっているようなコンセプトを何気にいじくっているときに、ある日あるとき突然何か新しいものを見つけるということがありますが、無意識の内にそういうことがしばしばありえるのです。その瞬間、科学者は古く固定された概念を通して課題点を見るといういつものやり方から去り、新しいものに着眼し、なんとかそれに関して意味を成す法則を見つけようとします。

これこそがシュタイナー学校で私たち教師が最終的に生徒たちに学んでもらおうとしている思考の形です。別に生徒たちに将来科学者になってもらおうとしているわけではありません。

科学は私たちにある状況下にどう観察眼を向けどう対応(物事の関連性を見つけ出し概念を形成する)したら良いのかを教えてくれるのです。

生徒たちは科学を通してそういうことを学ぶのです。


(続きます)

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科学教授法 その2

<簡単な歴史的背景>

多くの教師や親御さんたちや年長の生徒さんたちは、シュタイナー教育は、科学を学習するにあたり現象学的なアプローチを行うことを奨励していると聞いたことがあるかと思います。「現象学」という言葉さえ初めて聞く人が多いかと思いますが、現象学とは一体どんなものかとか、シュタイナー教育において現象学というものがどのように科学の学習で使われているかということになると一般の人たちには益々意味不明なものだと想像できます。

実際には、現象学というのはもともとシュタイナー教育から出たものではなく、17世紀後半から18世紀前半における欧州系哲学にそのルーツを持ちます。シュタイナー教育をご存知の方たちはゲーテ(1749-1832)とシュタイナー(1861-1925)が現象学的なアプローチの唱道者であったことをご存知かと思いますが、このアプローチは、アレクサンダー・ゴットリーブ・バウムガルテン(1714-1762)やヨハネス・ミューラー(1801-1858)やエドムンド・ハッセル(1859-1938)などからも擁護されていました。更に、過去の偉大な科学者たちの著書を紐解いてみますと、科学者たちが観察を通じて「ある一定のパターンや法則」を発見したり、今までに見たことのないことを発見したり、あるいは、ほかの科学者たちが見逃してきたことに気付く過程に関する言及があることに気付くことでしょう。これの例は、レオナルド・ダ・ビンチのノートや、ガリレオ・ガリレイの対話集の中や、ヨハネス・ケプラーのノートに見出すことが出来ます。これらのそれぞれにおいて、彼等は、先達の偉業をそのまま受け入れるのではなく、他の人たちが説明した現象をもう一度見直し何か新たなものを見つけることを通して、ある状況におかれた現象をより深く理解しようとしたことが伺われます。

例えば、ガリレオが生きた時代(17世紀の初頭)、「自然」に落下する物体は、重い物体の方が軽い物体より早く落ちてゆくという考え方が一般的でみんなが当然のようにそれを信じていましたが、この考え方を支える理論を注意深く検証したガリレオは、なにかが違うような気がしたのです。彼は理論がちゃんとかみ合っていないと感じたのです。そこでガリレオは、彼の科学者としての直感だけではなく、実際に実験や論証を通じて「重量」のある物体(羽であろうが塵であろうが)は全て同じ距離を同じ時間で落下し、各物体の落下速度は同じ割合で増加し、更に、落下速度の加速の割合も一定であるという結論に至りました。

この例は、シュタイナー学校の10年生が物理の授業で力学を学ぶとき1つのエピソードとしてしばしば使われます。

経験的なアプローチを奨励する別の良い例として、ダビンチが当時他の学者たちとの間でいかに話が噛み合わなかったかということが書かれた彼のノートが挙げられます。ダビンチが生きた時代(1500年ごろ)、大学における学問的な論議というのは神の偉業の解釈に重きが置かれ、世の中の現象に関するあれこれの疑問に対するものではありませんでした。もちろんそのような傾向はダビンチのように鋭い観察眼をもつ人物には不満でなりませんでした。エドワード・マッカーディー(1938年出版:ニューヨーク州レイナル&ハッチッコック社)翻訳による「レオナルド・ダ・ビンチのノート」の最初の部分にこう書かれています。

もし本当に、いままでの学者達がしてきたようにいろいろなところから引用することが出来ない場合、実際の経験に照らして物事を理解することが遥かに大きくより価値のあることとなる。そのようにして得た知識こそが本当の意味での理解と言える。最近の学者達は、自分たちの知識を尊大でうぬぼれた態度で見せびらかしているが、そんな知識は自らが生み出したものではなく、他の人たちが生み出したものをあたかも自分が発見したかのように言っているだけである。自分の意見を持つことを許されないような雰囲気すらあるが、自らの考えで以って発明家であろうとする私を見下すようなことがあれば、そんなことをする者たちこそ非難されべきだ。なぜならそんな者たちは発明者でないどころか、ただの提灯持ちか他の人がやった仕事の語り手でしかないのだから。

世の中で実際に起こっている現象を意識的に観察することが、中学校における科学の授業のスタート地点だと考えられます。


(まだまだ、続きます)




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科学教授法

科学教授法の授業が先週の土曜日から始まりました。

理数系を超不得意とする私ですが、なんとかこの授業も頑張りたいと思っています。

ローレンス先生曰く、

「時として、その教科を不得意な人が教えた方が、分かりやすいことがある。なぜなら、その教科を専門としたり得意とする人たちより必死になるし、生徒と一緒に学んでやろうとする姿勢があるからね。」

だそうです。


私も、姿勢なら、負けない。




ということで、私に割り当てられた読み物の宿題の和訳を以下に載せちゃいます。


+++++++

「現象学」ってなんだ?

著:マイケル・J・ダリオ
2004年6月
(2004年9月発行リニューアル・マガジン13巻2号で発表した文の編集版)

<はじめに>

何年か前のことです。

ある大型ストアのレジの列に並んで自分の番が来るのを待っていました。

自分の前にはまだ何人か人がいて、私と同じように自分の番が来るのを待っています。

女性が私の後ろに並びました。その女性は、恐らく3歳ぐらいの女の子を連れています。

女性は最初にレジの長い列をちらっと見て、それから列のすぐ近くに簡単な子供向けのパズルを見つけます。

そのパズルは木製の薄い板を切り抜いた3つか4つのピースの簡単なもので、それぞれのピースが木製のボードにぴったりとフィットするようになっています。パズルのピースはそれぞれ家畜のデザインで色もちゃんと塗られています。

「ほら!」

と女性が子供に話しかけます。

「これが、羊さんよ。」

と、いいながら羊の形に切り抜かれ羊の色が塗られたピースをボードから摘み上げて子供に見せます。

そこで私は、直ちにある問題に直面しました。

「『おい、おい...。それって羊じゃないぜ。』と心の中でつぶやきました。それは羊の形をした木製のパズルのピース。羊ってのは、もっと大きくて、特有の匂いがするんだ。それに、とっても特徴的な声で鳴くし、なんだか奇妙にすら思えるようなふわふわで体中が覆われているんだぞ。で、そのふわふわって結構オイリーだったりするから触ったりすると手にヘーンな匂いが付いちゃったりするんだよな~。ちょっとなめたりするとヘンテコリンな味だしね。あなたさ、誰かが羊の毛を刈るのを手助けしたことあるかなぁ。まず、羊を捕らえることから始まるんだよな、あれって。羊ってさ、随分とすばしっこいし、ジャンプだってする。ピョンピョンと跳ねっ返るよ。捕まえてもジッとなんてしていてくれないから、大変だ。羊にはいろいろな行動パターンがあるからね。僕にだって知らない羊の特徴が一杯あるんだ。お母さん、どうか、本物の羊が見れるようなところにお子さんを連れて行ってあげてよね。」

もちろん、私は、その女性や子供には決して何にも言いませんでした。

しかし、この女性の話は、ただ単にポンと与えられたコンセプトと実際に肌で感じる経験を通したコンセプトとの間に違いがあることを私に明確に理解させたエピソードとなりました。

もちろん、自分自身子供を育てる立場にあって、あの女性とお子さんの状況はよく理解できます。

ストアのレジの列は、大抵の場合、人が多く並んでいればいるほど退屈なもので、その退屈を何とかするためにいろいろと店側も工夫を凝らし、レジの列に沿っていろいろ並び立てて最後の最後までなにかを買わせようとしているわけです。大人だったら、もうすっかり目に慣れた光景ですから無視を決め込んで自分の番が来るのを辛抱強く待つことが出来ますが、あれこれカラフルに目に迫ってくる魅力的な商品を小さな子供が完全に無視することはできません。

ストアのレジの列に限らず、私たちオトナは、特に深く考えもせずいとも簡単に別のことに気を紛らわせることが出来るようになっています。

目の前にある現実の世界から自分自身を分離するだけでなく、自分自身からも分離してしまうわけです。そんなワザを私たち大人は持っているのです。



(まだまだ続きます。)




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サイエンスを教える。

今学期は、「シュタイナー式サイエンス教授法」の授業をとっています。

先生は、ローレンス先生。シュタイナー学校6年生の先生でもあります。
ミシガン大学で何年か化学を教えていたそうですが、今ではバリバリのシュタイナー教師です。



ローレンス先生の授業は、去年「シュタイナー式数学教授法」をとりました。

一番最初にボソボソと喋って分かりにくい先生やなと感じて、「とるのやめよか...。」とさえ思いましたが、クラスメイトの強い押しで仕方なく継続して授業に出ましたら、なんとも微妙な天然ぶりがお茶目だということに気付き、

「随分、おもろい先生やん!」

ということで、今ではすっかりローレンス先生のファンです。





ということで、これからちょっと「シュタイナーで学ぶ科学」について書きます。

(今日は、これにて御免。仕事で接待です。)






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本物を見る目

恐らく、間違っていないと思うのですが...。

テレビでカラヤン指揮のベートーベン第9を聴くより、たとえ指揮がカラヤンじゃなくても(って、カラヤンはもうこの世にいないし...)生演奏の第9を聴く方が良いでしょう、とシュタイナーは言うんじゃないかと想像します。

やはり、何であれ、「なま」であることは重要です。

フィレンチェのディオモの前に立ったとき、その壮大さに鳥肌がたちました。

ローマでピエタをみたとき、その神聖さに言葉を失いました。

もう一度、デュオモやピエタなどをどうしてもみたくて、今年もイタリアに行っちゃったぐらいです。

写真やテレビじゃ駄目なんです。

心に訴えてこないんですね、画像では。

本物とは雲泥の差です。

本物は、心に、こう、グッと迫ってくるものがあるんですよ。




ということで、

「今年もイタリアにいけたら、超しあわせ~!」

なんて思っておりましたら、ボウズの学校の掲示板に恐るべき情報を見つけました。



「トルコへの旅」


!!!!


どうやら、イタリア・ツアーがうまく軌道に乗ってきたので、新企画としてトルコ勉強ツアーが計画されたようです。

イタリアのときと同様、トルコにも並々ならぬ興味を持つ私は、すっかり浮き足立ってしまって、そわそわしています。

ツアーは7月。


ということは、ウチのボウズの学校は既に夏休み...。


どうしたもんか。

そわそわ。

うきうき。

いきたいな~。

ブルー・モスクやアナ・ソフィア...。

本物がみたい!

ボスポラス海峡の向こう側にアジアをみながら、はるか昔に西洋の文化が東洋に渡っていく様を想像してみたい!

サバのサンドイッチも食べてみたい!







で、で、で、でも、お金が...。




だれか、一緒に行きませんか?






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クロスステッチ

秋学期に、「ハンドワーク」の授業をとりました。

たった3ヶ月間、それも土曜日だけですから、やれることは限られてきます。

編み物(指編み、棒編み、かぎ編み)、お人形作り、フェルティングの基礎だけをざっくりやりました。

ハンドワークは本当に奥が深く、「これでおしまい」ということは永遠にありえません。
一生なにか作り続けることが出来ますからね。

ハンドワークは、「作ったものを利用する」という実用的なことだけが目的ではなく、ハンドワークをしながら人生に関していろいろと考えることができます。

そんなことを、今回のハンドワークの授業で学んだ私です。





私が、すっかりハマってしまったのは、クロスステッチ。

シュタイナーのクロスステッチは、裏面のきれいさをあまり考えなくていいようです。

大切なのはきちんと1つ1つクロスを完成しながら縫い進めていくということ。

「左上から右下へ。右上から左下へ。」

とクロスを完成させます。これを繰り返します。

決して、下から上にクロスさせたり、同じ方向にばかりまとめて縫ったりはしません。

これはオイリュトミーにも繋がっている思想で、体の前で両手を交差させるのと同じです。

腕の交差はEMBRACE(抱擁)ですから、クロスステッチも一回一回抱擁しながらということのようです。

で、そんな感じでステッチを進めていきますと、裏側が大変なことになりますが、私の個人的な解釈では、「人生、裏表あります~」ということかな、と。

それから、作品を回しながら作ってはいけないといわれました。必ず上を決めて、それを固定したまま進めるようにと。

ということで、ピン・クッション(針ボウズ)とベース・クッション(花瓶置き)を作りました。
方眼紙を使って自分でデザインしました。ポイントは、「左右対称」です。


cross_010.jpg
「上」側に印をつけます。上は必ずいつも上であること。

cross_011.jpg
恐怖の裏側。グチャグチャ!
表はどんなにきれいでも、裏はグチャグチャだったりする。
あ~、人生…。

cross012.jpg
これで、ピン・クッションの出来上がり!
イタリアでお世話になった尼僧院の尼さんにプレゼントしました。

cross_120.jpg
クリスマス休暇中に作ったベース・クッション。
タッセルをつけてちょっと豪華に。デザインはイタリアで見た紋章を参考に。
これも、イタリアでお世話になった方にプレゼントするつもりです。



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