アメリカでシュタイナー・スクールに通う

シュタイナー教育をご紹介します。

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何かが、おかしい。

ウチの坊主(13歳)は、日本人補習校にも行っています。

なんだか、ダブルスタンダードでよくないんですけど、土曜日にダラダラしているよりは全然良いと思って。

それに、日常生活の中で日本語を使うことが殆ど無いので、土曜日だけでも日本語や日本の文化にひたってもらいたく…。

まぁ、本人も、

「漢字が全然駄目~。」

とか、

「難しい言葉が出てくると、もう、殆ど宇宙人で、全然意味分からん~。」

などとモンクは言うもの、長い付き合いの友達がいるので、何とか細々と続いています。



さて。


中学部に入ってから、本当に勉強が難しくなってきて、授業は日本語を理解するだけでも大変なことになっています。

それに、シュタイナー学校での学習方法とはまったく別のアプローチの補習校の授業は、彼を混乱の渦に陥れています。

例えば。


科の教科書には、こうあります。

(きれいな図付きで)二酸化マンガンにオキシドールを加えると酸素ができます。

恐らく、学校では、この通り覚えるというのが普通なんでしょう。

「そういうものなんだから」

という理由で。

事実だけを機械的に覚える学習はシュタイナーでのやり方とは全く違うので、ボウズの頭の中には全く残りません。

ましてや、化学物質を日本語で覚えるなんて大変なことです。

「に、に、にさんか まんがん????」

てなことになります。

なんで二酸化マンガンなのか、なんでオキシドールなのか、なんで酸素を発生させたかったか…その辺にまつわる話を物語り調で生徒に語りかけ、生徒同士でディスカッションさせ、じゃあ、自分たちもやってみようか…、というような持って行き方にすると、化学の現象がもっと身近になるんじゃないかと。

「ま、とにかく、こうなってるんだから、とりあえず覚えてよ。」

じゃ、全然面白くないし、全然残らないし。

これじゃ、たまたま理系が好きな人しか、続かんわぁ。



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なぜ学校でオイリュトミーをやるのか  (((その4:最終回)))

このシリーズは、これでおしまいです。

今までのやや抽象的な説明が、ぐっと具体的になって、心に響いてくる内容だと思います。

++++

オイリュトミーの取り組み方や教授法は、それを学ぶクラスのレベルで違ってきます。幼稚園レベルでは、おとぎ話をベースに行い、小学校の下級レベルでは、もう少し明確なフォームを取り入れた流れとなります。幼稚園から一年生に上がるときには、とても明確な飛躍が用意されています。幼稚園では、遊びグループの中で先生についてオイリュトミーに取り組みますが、小学校に上がると、みんなで円になって出来る限りこの円のなかで平等なスペースを確保しながら行うのです。

オイリュトミーでは、円が大変重要な役割を果たします。授業は必ず円で始まり、それをしっかり維持しながら授業が進みます。この状態は4年生か5年生まで続きます。それ以降、子供たちの独立性は増し、自意識が目覚めます。自分たちの意識レベルを向上させるために、教えるほうも少しずつ違ったアプローチをするようになります。円から卒業し、今度は、方向転換し、みんなが同じ方向を向きます。前を向くのです。このようにして、前、後ろ、右、左の方向を新しい方法で体験します。この段階で初めて実際に空間を(自分で)作ることが出来るようになります。(子供のころは円の中には既にスペースがあって、子供たちもそのスペースの一員であった。上級生になって円とは別の方向に向くことでスペースが無限に広がる。そのスペースにフォームを作る、つまり自分の意思で自分の人生を作っていくという環境に変化したということ。)

スペースを作るというのは、オイリュトミーと舞踊の違いの中でももっとも特筆されるべきことのひとつです。言葉と音楽が空間の中に満たされるように、オイリュトミーも空間に充満されなければなりません。そして、この充満は目に見えるものでなくてはならないのです。オイリュトミーにおいては、肉体は楽器であり、空間は楽器を奏でる媒体なのです。

4年生以降では、空間の中に何かを作ることを学びます。空間を作ることを学ぶのです。それは、彫刻家が粘土から作品を創ったりすることに例えられます。また、4つの主要方向にたいして、より強く意識を注ぐことになります。前進するのと後進するのでは違います。右に行くのと左に行くのでは違います。その違いを意識的に理解するのです。まっすぐなラインを作るとき、あるいは、円や四角を描くとき、自分の体をどう使い分けるのでしょうか。
(高学年では)空間にいろいろな形を作り上げるためにグループを作ってそこからはじめます。幾何学的な形を簡単なものからはじめます。そして、少しずつ複雑な形にしてゆきます。しかし、どんな形を作るときも、必ず、全体的にハーモニーが整っていることが重要です。そうすることで、内面と外面の両方で形が出来上がり、子供たち一人一人の社会的な感情を呼び起こします。

1年生で円を作ったとき、両隣の子と同じスペースを維持しながらまっすぐ中心に向かって綺麗な円を維持することは大変な苦労でした。少しずつ、円に動きを加えたとき、その動きがたとえ小さな動きでも、円はすぐに形を崩してしまいます。自分の立ち位置、両隣の立ち位置、円に参加しているお友達みんなの立ち位置を注意深く観察しながら、円を崩してしまわないように適切な自己調整作業が必要となります。自分のステップを注意深く動かさないと、円はたちまちのうちにバランスを崩し、隣の子とのスペースが大きくなりすぎたり小さくなりすぎたりします。円の一部に穴が開いてしまったり、あるいは、別の場所にばかり子供が固まってしまったりします。円は、平等な間隔を維持しながら、大きくしたり小さくしたりすることが出来ます。そうすることで、空間を動きながら、いろいろと違った形を作ることが出来ます。1つの円の中にもう1つの円を作ることもいいでしょう。これをベースに、花の形や星の形などを作ることが出来ます。たとえ一人の子供でも、ボーっとしてよその方を向いていたり、タイミングを逃してしまったら、このような形を作り上げることは出来ません。

たとえば、四角のような簡単な形を作るとき、4人の子供たちのそれぞれが同じタイミングで4隅に移動してこないとなりません。このタイミングは、5つの頂点を持つ星を作るときにより重要となってきます。5方向に散らばるタイミングがまったく同じでなければならないからです。高学年になって形の複雑度が増せば増すほど、高度な集中力が要求されるようになっていきます。グループの中の構成員一人一人の動きがそれぞれ違ったなかで1つの形を作る場合、メンバーは他のメンバーとの関連性をしっかりと理解して動かないとなりません。それは、オーケストラと同じで、一人一人別々の楽器を持っているものの、一緒に奏でれば1つの楽曲を演奏しているということです。

たとえば、カタツムリの殻のようなスパイラルの形は、よくオイリュトミーで使われます。いろいろな形のバリエーション(簡単なもの、複雑なもの)や、その形を動かしたりするかどうか、使い方は様々あるかと思います。このスパイラルは常にハーモニー効果を発揮します。横着で外に発散しすぎるな子供は、スパイラルがその子供を中に中へと入れて優しく包み込もうとします。内向的過ぎる子供は、スパイラルの外に向かうラインに乗せて外へ外へを導いて、心を外に開放させてやるのです。このような方法を通じて、オイリュトミーは子供の内と外を強化するのです。

自分の体を使って崇高な自然の力を体充満させる母音と子音の動き、つまり、オイリュトミーを通して、私たちが何を成し遂げようとしているのか、リズムと空間を作り出す動きが何を目指しているのか、今までの説明で理解していただけたでしょうか。そんな動きを通して、子供たちにもっと調和がもたらされ、オイリュトミーをやらなければまったく別の方法で対応していたかもしれない来るべき思春期の苦労を、オイリュトミーを学んだことで乗り越えることができるようになるのです。

今日思春期を通る子供たちは、心と行動がバラバラで調和が取れていません。

それに、社会全体的に、周りにいる人たちに配慮することがまったく欠如しています。

オイリュトミーは、子供たちの心と行動を結びつけ、思考と感情と意思に調和をもたらします。

そういう理由で、シュタイナー学校ではオイリュトミーを教えているのです。


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なぜ、学校でオイリュトミーをやるのか。 (((その3)))

続きです。

     


発声器官が言葉と動きに関連があることを提唱したのはシュタイナーです、言葉がどのようにして全身を使った動きに変換(つまりオイリュトミーと呼ばれる「目に見える言葉」となったか)されるかを説明したのです。

このようにして(つまり、言葉と動きを使って)自然力が生きていくことや成長する力を自分たちの体の中に自然な形で流れていくようにしているのです。しかもその流れ方は野性的で不規則ではなく、体の中に根付き本当に自分である人間性に基づいた意識的なものです。

毎日の会話の中で使うように、母音や子音は体の動きに変換されると、それほど生き生きとした質感を持っているようには感じられないかもしれません。人間は、言葉が持つ重みの意味を忘れてしまっていて、本来言葉が持った強弱を無視し、不注意に言語を利用するようになってしまったのです。しかしながら、詩人や物書きは言葉の後ろ側にあるいのちというものをまだしっかり捕らえることが出来る人たちです。

詩人スインバーンズ作の蝶を描写した詩の中の母音と子音の使い方がまさにそのことをよく説明しています。「白い蝶たちよ、飛びたて。海に向かって」。これを、テミーソン作の鷲を描写した詩の中の母音と子音の使い方と比較してみてください。「彼は、折れ曲がった手で突き出た岩をつかむ」。あるいは、ウィリアム・ワトソン作の詩の音とリズムによく耳を傾けてください。「波と風と柳の木が揺れる」。このような詩を使って、命の動きと母音・子音を意識しながら子供たちに体を動かせると、癒しとハーモニーが一体化した創造的な力で子供たちの心と体が目覚めていくのを見ることができるのです。

オイリュトミーあるいは目に見える言葉を通じて、子供たちは2つの逆の要素を持ったもの(個性と肉体)の間のハーモニーやバランスを学ぶことが出来ます。実際、これを可能にするためには、3つ目の要素が必要となります。実は、これこそがオイリュトミーで一番大切なものです。リズムです。リズムには、肺と心臓において身体的な表現が存在します。つまり、肺はリズム正しく呼吸をし、心臓はリズム正しく鼓動をし、また、「吸う・吐く」や「収縮・拡張」といった継続的な変化が発生していますね。このリズムが体の器官を持続させているのです。肉体的な疲労感を味わったり精神的に参ったりすることがあったとしても、肺や心臓が疲れて休んだりすることはありません。心臓や肺の停止は死を意味しますからね。つまり、リズムなくしては生命はありえないのです。

自然界も同じです。リズムは命の証明で、たとえば、一年には夏があり、秋が来て、冬が訪れます。昼の後には夜がやってきます。リズムはどこにでも存在するのです。明暗や開閉や長短や上下と言った違いは、命のあるところにはどこにでも存在するように思われます。しかし、リズムをビート(拍子)や尺度と混同してはいけません。拍子や尺度は、同じことを何度も何度もそのまま繰り返すだけのことだけです。ですから、活気を殺してしまうような効果があるのです。本当にリズムは、常に2つの相反するものの間を行ったり来たりするのです。

全てのものにはそれぞれ独特のリズムがあります。海の息遣い、鳥の飛行、カタツムリの歩行、風にたなびく木の葉。みんな、自分だけの方法で、自分だけのリズムで動きます。内面で感じ取ったものに従って動くだけではなく、歩調を長短で変化させてみたり、動作を開閉(きゅっと閉じて、ぱっと開く)で変化させながら、旋律や詩に合わせて動かせることで、子供たちの中にある別々のリズムを呼び起こすことが出来るのです。こうして、子供たちの中で、リズムの要素が目を覚ますのです。

私たちの中には2つの柱が存在して、その間を行ったり来たりしています。頭の中で考えたりする活発な力と、肢体で実際の行動に移す意志の力です。(考える力と実行する力:やる気というのは実行し始めて始めて湧き出てくる) なにか1つのことが上のほうからやってくると、それと同時に、別のことが下のほうからやってきます。そして、そのちょうど中間、いわゆる心臓部にリズムの要素が息づいています。気持ちというものは、いとも簡単に同情と無情の間を行ったり来たりしますし、冷たくなったり暖かくなったり、あるいは、頑固になったり優しくなったり、笑ってみたり泣いてみたりするものです。このように柔軟性と挑戦的な特性をもった感情は、意思や行動と結びつき、頭で考えた苛酷な要求をより無意識的に動的体現するための助けとなっているのです。

感情と思考と意思を持った人間がこのような方法で動きを通じて行動に移し表現することが理解できます。これは、意識的に行われているわけではなく、特に小さな子供の場合、成長するにつれて意識的なものになってゆきます。



+++

あと一回でおしまいです。(う~ん、日本語にすると、ワケ分からんようになる…)

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なぜ学校でオイリュトミーをやるのか。 (((その2)))

前回の続きです。

     

幼児が初めて自分の足で立つとき、それはハイハイから直立歩行に移行することを意味し、子供の中でうまれて初めて自分というものに気づく瞬間です。それ以降、人間は、自然界にいるどんな生物よりしっかりと直立する存在となるのです。人間が自然界に存在するもの全てを自分の中に持っているのは、基本的に人間を構成しているものは全て自然界の中にあるものだからなのです。私たち人間は、自然を作っているものと同じ要素、そして同じ力(作用力)で作られています。今、子供が目覚めます。自然と共通したその部分、つまり自分の体に触れるために、子供の中にあるより高いところに存在する自我が目覚めます。それは、自らの目標を達成したり自分でうまく調整するための目覚めです。

自然界に存在する物ばかりが人間の体の中に共通してあるわけではありません。自然界の中にある動き(動作)も人間の体の中に存在するのです。赤ちゃんから幼児へと成長する過程で、そのような自然と共通の動きがどんどんと喉や発声器官に集中するようになって行きます。小さい子供たちが体全体を使って表現するのとは違い、スピーチを通して表現活動を行うようになります。このように喉に集中した動きが喉で発生した言葉となるのです。喉に集中して言葉となった動きと子供の個性が自然の力と一体化して存在するのです。

人間のスピーチ(言語)には、2つの要素が含まれています。1つ目は母音で、音として発生され、魂の意識を表現します。「あ!」とか「え!」とかのそれだけで感情表現が出来る言葉たちです。もう1つは、子音です。子音は肉体的な要素、つまり自然の力の表現と考えられます。KとかFとかSといった音です。子音があって私たちは(ものを)作ったり描いたりすることが出来るのです。母音や子音のうち、自然の中で形になったものが生きるための力なのです。たとえば、鎖が音をたてているわねと私が言うとします。そうすると、「ラトル」という言葉のなかにある子音の組み合わせを通じて音の特徴が聞こえてくるはずです。

「スライド」と言う言葉は「タンブル」という言葉と違います。つまり、子音が像を作り上げるのです。「何かがパリッとしているわね」と聞くと、この言葉の子音を通してパリッとした様子が聞こえてくるのです。ですから、母音と子音は言葉の中で一緒に発声されるとそれが肉体も伴っているということであり、さらには、私たちの魂や、全霊さえも伴っているということなんです。

言葉は喉頭辺りで作られ発声されるようになっています。喉を通じて母音や子音を作らず全身を使って母音や子音を動きに変換すると、それがわたしたちがオイリュトミーと呼んでいるものになります。ある意味、、オイリュトミーとは、言葉の原点に戻ることだと考えられるでしょう。なぜなら、赤ちゃんがまだしゃべることが出来ない場合、本来なら言葉として発生されるものが動作として表現されるからです。私たち大人は、動作を意識的にすることが出来ます。それを使って、子供のところに持っていた想像力を再び呼び起こすのです。


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まだ、続きます。


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なぜ学校でオイリュトミーをやるのか。 (((その1)))

永らく、サボっていました。ごめんなさい。

今日は、オイリュトミーに関して、いい読み物がありましたので、その訳文を載せちゃいます。

カリ・ファン・オールットという方が書かれました。

     


「オイリュトミーが必要な職業とか雇用形態なんて、ないわ。」

「人生にオイリュトミーがどう必要とされるのか、良くわからないな。どうして学校ではオイリュトミーにそんなに時間とエネルギーを費やすんだろうか。」

こんな質問を良く聞きます。

そうです。確かに、必ずしも人生にオイリュトミーは必要ではありません。子供たちが知っていないといけないからという理由でオイリュトミーを教科のなかで教えているわけではないのです。それは、芸術家や絵描きを養成するために子供たちに美術を教えているわけではないと同じで、別に子供たちに舞踊家になってもらおうとしてオイリュトミーを教えているわけではないのです。

シュタイナー学校で学ぶ教科全ての背景には、ハーモニーの中に子供たちを入れて、子供たちが自分の心と体にバランスよくそのハーモニーを織り込み、1人の人間として最大限の能力が発揮できるようにするための努力が存在するのです。それには、オイリュトミーが大いに役立つのです。オイリュトミーの動きを通じて、子供たちは自分の動作や活動をうまく調整する方法を学ぶのです。

実際、子供たちの生活において、「動き・動作」は大変重要な役割を演じています。ゆりかごの中にいる赤ちゃんをよく観察してみましょう。赤ちゃんの手の動きや足の動きをじっくり観察するだけで、その赤ちゃんがどのような性格を持っているか想像することが出来ますね。赤ちゃんが嬉しければバチをたたくように空中で足や手を打つような動作をしたり、何か気に入らなければ足を突っ張ったりして、動作がその赤ちゃん全存在の表現方法となっているのです。

赤ちゃんは、成長して、歩いたり走ったりするようになります。子供(幼児)の動作は、周りからの刺激に対する印象への反射だと考えられます。幼児は自分の周りになる全てのものに対して巻き込まれます。そして、自分の目で見えるものは、肉体的な動きで再表現されるのです。軽快に動きまわるリスを眺めている子供と、体を丸めてうなっている猫を見つめる子供は随分と違って見えますし、何時間も桟橋のところでじっと水面に浮かぶ小船を静かに眺めている子供とも違って見えるはずです。子供は自分の頭のてっぺんからつま先まで全身で水面で揺れている小船を眺めているのです。この子供の経験全てが自分の体に充満し、動作によって表現されているのです。(小船の揺れとシンクロして自然に体が動く、ということ。自分自らが小船になったかのように。)

私たちが成長して大人になるにつれて、このような動きは少しずつ、少しずつ抑制されてしまいます。そして、世界を、いわゆる知的に頭の中だけで理解・反映するようになってしまうのです。子供の頃に比べると、私たちの体は重くなり、動きも鈍くなります。そして、体も硬くなってゆきます。肉体面に関しては、スポーツをやったり体を動かしたたりして、加齢によるダメージの克服に努力するものの、その努力は頭で考えた知的なもので、想像力や自然の力といったものとはなんら関連がないわけで、子供たちが自然に生み出す動作とはまったく別のものなのです。もし、たとえ大人になっても、自らの肉体を通じた自然な命の流れを維持して、いつまでも元気でいられるものならば、もっと力強く人生を生きていけるでしょうし、頭で理解したものを意思に昇華し体中に充満させ、行動に移すことが出来るでしょうに。これこそが、子供たちにオイリュトミーを学ばせることで私たちが成し遂げようとしていることなのです。

次回に、続きます。 

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